第39話  文豪「幸田露伴」の釣   平成15年9月25日  

「私は釣れても釣れなくとも良い釣ですから、今年は7回ばかり行ったですよ。それで釣れないからと云って頬を膨らましません。それは釣の目的が異なるからです。釣が目的の人は漁がなければ腹も立つでしょう。私の釣は周りの美を求める事が目的なので少しも腹が立ちません。」と幸田露伴が「釣魚通」にて語っている。

正に「文人の釣」である。
明治の文豪として知られる幸田露伴は有名な自他共に認める釣好きであった。釣についての文章を色々書いているが、この文章ほど幸田露伴の釣に対する考え方をあらわしている物はないと考えている。中国の文人墨客の中で釣れる訳もない真直ぐな針で天下を釣った太公望呂尚が有名ではあるが、それは後から作られた逸話である。それはともかくとしてとかく文人の釣は文章が上手く、釣の上手下手を隠し、釣そのものを美化しがちであるように思える。しかし、其の文章に接するとその様に思えてくるから不思議である。

私の若い頃の釣は数も然りであるが、大きさも求める釣であった。だから人一倍釣もしたし工夫もしたし、大きさを求めて遠征もした。其の内黒鯛だけを狙う釣に変わった。然るに最近の自分の釣は、釣る事自体が面白くて引きを楽しめる黒鯛の小型を求め釣行を重ねているようだ。車から降りてほんの23分の危なくない場所で夕方のほんの23時間釣れればそれで良い。

釣の上手下手は別にしても、他人より多く釣りたい大きいのを釣りたいと思う事が当たり前だと思っていた若い頃と異なり、釣をしていて春を感じ、夏を感じ、秋を感ずる釣も捨てがたい。最近年を重ねて来ると自然の中に自分を置き自分を感ずる様なそう云う「文人の釣」もあっても良いのかなと思えるようになって来た。